誰のためでもなく記す。
ここ1年あまりで、私は2回、大切な人とお別れをした。
1回は、恋人と別れた。去年の10月の事だった。
彼女とは2年半交際したところだった。長いと思うか短いと思うかはひとによるだろうが、私にはあっという間の2年半で、かけがえのない2年半だった。
本当に好きだったから、愛を実証できるまで愛してるとは言わないようにしようと口をつぐむうちに、私だけが彼女の心が離れていくことに気づかず、もう恋人でいられないと告げられた。雨の日だった。
愛の定義もわからなかったが、きっともう私は彼女を愛していた。この先もずっと一緒に居られるようにがんばろうと思った矢先、彼女は私の元から去り、私はもうどうしようもなくて最後に一言、愛していると告げてお互いに別れた。
ともすれば陳腐なほどにありきたりな失恋だが、それが私の長い暗闇の始まりだった。
別れて帰宅し、間もなく私は生きることをやめようと思った。涙が枯れないことがあると知った。泣き声は呻きになり、人間らしい言語を喋れなくなった。学校に通っていたのだが、10日ほど休んで、何をしていたかと思えば何もせず、ただ死ぬ前の走馬灯として彼女との思い出だけを浮かべていた。
しかし幸い、親は、家族はずたぼろの私の心からも離れず、彼らに電話をかけるなり私は泣き出し、事の顛末を話すといちど実家に戻って来いと言ってくれた。行く道、線路へ誘われても踏みとどまり、家族に迎えられて静養した。死にたいと母に言ったらあんたが死んだらわたしも追ってすぐ死ぬと言われ、私は母に死んでほしくなかったから仕方なく生きることにし、一応人として復帰できるようになった。
その後は、学問の発表とか就職活動とかいろいろと生きる理由をつけて、なんとか死なないようにした。あれをやればいいことがあるかも、これをやれば幸せになれるかも、ああまさか、何かの拍子に彼女と再会できるかもとこじつけてでも、とりあえず生きた。
もう1回は、祖父と別れた。今年の8月の事だった。
母の父であるおじいちゃんはもう米寿を迎えていて、6月くらいに一度入院したが、当時はベッドで寝たきりとはいえ食事も摂れ、2週間ほどで退院し、きっとこのまま長生きできると思っていた。
7月にまた入院した。今度は肺がうまく機能しなくなり、人工呼吸器をつけても良い状態だったが、おじいちゃんは意識ははっきりしていていたから、喉に管を通すのは気の毒だということでひと月も様子をみていた。
2度目の入院で、前回よりも明らかに容体は悪く、もう秒読みかと思われたが、それでもおじいちゃんはあきらめなかった。徐々に徐々に呼吸を取り戻し、完全点滴から流動食に、やがてゼリーも食べられたそうだ。ただ、お見舞いに行ったときはまだ水も飲めない状況で、しかも意識はちゃんとしていたから食べる喜びが完全に失われていて、水を飲みたいとしきりに訴えていた。言葉にならない言葉をもどかしそうに発するおじいちゃんと握手をして、私はがんばるからおじいちゃんもがんばってと約束した。覚悟はしていたが、どこかでおじいちゃんは死なないと思っていた。
8月の台風一過の晴天に、おじいちゃんは旅立った。私は偶然帰省していて母と一緒にいた。母は私よりももっとずっと覚悟をしていたらしく、訃報には涙していなかった。ただ、途中に乗った自転車の操縦はぎこちなかった。
おじいちゃんは元々やせていて、骨と皮と心でできていたひとだったが、もう目を開けなくなったおじちゃんは骨と皮そのものになっていた。ひとの死は初めてではなかったが、ああ、これが、これが死だ、そうだ、ひとは死ぬんだと思い知った。
入院していたときにみんな心の準備はしていたらしく、親戚一同あんがい平素に振る舞っていた。身内には乳飲み子がいて、おじいちゃんを弔う傍らでは赤ん坊を可愛がった。きっとおじいちゃんも可愛がっていた。みんなと一緒に。
おじいちゃんと最後の最期のお別れをし、火にくべて、骨と皮だったおじいちゃんの肉体は骨だけになって世界の一部になって、おじいちゃんの心は私たちと一緒になった。皮の行方は知らない。
かくして2回のお別れを経て、私は日常に戻った。
ところが不思議なことに、どうも私の心は怪しかった。笑ったり喜んだりすることもあるのだが、それは笑ったり喜んだりする原因と一緒にある瞬間だけのことで、それが過ぎるとしゅんと幸福は去り、それどころか去った幸福を寂しく思って落ち込み、家ならばがむしゃらに泣くようになってしまった。何度やっても泣くことに飽きず、外では平然とするものの幸福の不感症を患い、家ではふとした拍子に泣いていた。恋人を思い出し、祖父を思い出し、家族を思い出し、友人を思い出しても、幸福は思い出せなかった。新しい幸福を探しても、幸福が目の前にあるときはともかく、過ぎ去るともう幸福でなくなった。週末に楽しみがあるからがんばろうとも思えず、週末は楽しかったからがんばろうとも思えなかった。もう誰かに恋はできないと思ったし、誰かを愛することもないと思った。ここにきて本当に絶望したのだった。自分がいま暗闇の中にいると知った。
12月24日はクリスマスイブだから賑わうが、そのひと月前の11月24日は何の日でもない、ただの日だ。かつての私はなぜか毎年その日を心待ちにしていたが、今となっては理由がわからない。2018年の11月24日は前日の勤労感謝の日から続いて2日目の休日だが、私は勤労感謝の日に勤労を疎みながら勤労していたから土曜日は反動で呆けていた。
髭を剃っていたら電話が鳴った。朝から誰だと思えば母からだった。もしもしと応答すると、お誕生日、おめでとうと言われた。
ああ、そうだった。24年前の今日、私は生まれたらしい。これまで私が11月24日を待ち望んできたのはそのせいだった。
自分でも忘れていた自分の誕生日を、母は覚えていて、おめでとうと言ってくれた。父は多分覚えていると思うが毎年特に連絡はしてこない。恋人からのプレゼントを心底大切にしていた私もいたが、去年はもうもらえなかったから、いっそのこと忘れてしまったのだと思う。
むしょうに、母への感謝の念が湧いた。もう私はプレゼントをもらう側ではないと、すっきりわかった。そういえば誰かから聞いた話では、誕生日とは自分を生んでくれた親に感謝する日だという。それでは今日この日に、人生で初めて「産んでくれてありがとう」と母に言おうと、そう思った。
ところが体は不慣れなことを拒み、「産んでくれて」の部分が口元まで出かかっても言えず、ありがとうしか言わないまま電話を切った。私は消化不良のまま、1人で昼食の下準備にかかった。
大根を刻んでいるそのときだった。
私の中に、感情が流れ込んできた。それは寂しさや惨めさではなく、悲しみでも怨みでもなく、喜びでもマザー・コンプレックスめいた童心でもなく、はたまたそれらすべてであったかもしれない、何か大きな感情のうねりだった。うねりは飛沫をちらし、飛沫は私の目からとめどなく溢れ、ああ、もし今言わなくて、来年に言える保障などどこにあるのだと気づいた。ひとは去るし、死ぬのだから。
静かに包丁を置き、母に電話した。そのとき母は電話に出なかったが、5分もせず折り返してきた。
またもしもしから始めて、いつも通りに最近見た映画の話をした。ひとしきりすませて、私はあのねから呟き、一息吸って、
産んでくれてありがとう
とはっきり言った。
すると母は、さっきも聞いたよと笑った。さっきの電話で伝わってたらしい。私のことは何でもわかってしまうそうだ。
母は私が生まれたときの話をしてくれた。何回か聞いた話だったが、私はうん、うんと熱心に聞いた。きっと私の相槌が涙声になっているのも母は気づいただろう。話が終わったとき、私の声は明るくなってじゃあねと電話を切った。
また一人になった部屋で、感情が押し寄せて涙が出てきた。ただしこれまでと決定的に違うところは、涙ばかりか笑みもこぼれてきてしまい、異様な泣き笑いを浮かべていたことだ。
ずいぶん長く忘れていた気がする。ずっと探してきた気がする。私はそんな、よくわからない、愛かもしれないし、幸せかもしれないやつを、やっと、やっと見つけることができた。
生まれてきて、よかった。
誕生日おめでとう。
そういうことと、今回描いたまんがには、なにかと縁があるかもしれない。
「メメント森さん」とは、ちょっとあきれてしまうタイトルではあるが。
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